朝起きられないという「習慣」
私の両親は戦後に生まれ、バブル真っ只中の高度経済成長期に就職し、父は出世の階段を駆け上り、母はそれのおこぼれに預かり、子供を3人も育てて、実に成功体験しか味わってきていない。
この世代の人たちは鬱病という概念すらはねのけ、今でもおもしろおかしく暮らしている。
私の世代は真逆だ。そんなおもしろおかしくパリピみたいに生きている両親にまったく同情もしてもらえないまま、就職氷河期で路頭に迷いかけ(実家に帰れば衣食住は保証されるが)、周りもみんなかつかつという状態で「ロストジェネレーション」なんて呼ばれながら地を這いつくばるような生き方をしてきた。上司はひとつ上の世代なのでまだパリピをひきずっている。セクハラやパワハラが許されたのは、おそらく給料がよかったからだろう。でも今はそれすらも期待できない。それらの相手をしながら我々はさらに不機嫌になる。同世代は貧乏だから、恋愛も結婚もなにかと金がつきまとってうまくいかない。かといって下の世代は人口が少ないからちやほやされる。どちらを向いても、何をしてもうまくいかないし、パッとしない人生だ。
「朝起きるのがつらい」と思い始めたのはずいぶん前からだ。子供の時は起きたら妹を幼稚園に連れていくというしんどいタスクがあった。彼女は行きたくないので、物理的に抱えて園内に入れないといけなかったのだ。
大人になっても「朝起きたくない」状況は続いた。苦痛すぎて、出社しても午前中はピリピリして別人のように性格が悪い。東京の満員電車では吐いてしまう可能性があり、朝ごはんは食べられなかった。
しかし、福岡に引っ越して、「朝起きたくない」というのは「習慣」になっているのでは?と思い始めた。
ロストジェネレーションの「希望のない人生」は何かに期待をして朝起きる、ということを徹底的に潰してきた。期待しては裏切られるの繰り返し。だから起きたくないのだ。
だけど、そもそもの生き方を変えてしまったらどうだろう?そもそもの考え方も変えてしまっては?
起きるのは苦痛だと思い込んでいないか?
別に起きることは苦痛でもなんでもない。目が覚めたら起きればいいだけの話だ。本来は時間なんか定めなくてもいいはずなのだ。そもそも、「起きるときに希望をもって起きる」必要はない。
朝とは、別に素晴らしい時間帯ではない。ただの「午前中」だ。そもその人生や毎日に何かを期待して、感情的になってはいけないのだ。
例えば、長年中学生から不良をやっていた学生なんかにも、あるかもしれない。いつか不良を卒業しなければならないけど、もう長年不良をやってしまったから、抜け出せないだけの話。
起きること自体は確かに苦痛だろう。だけど、永遠に寝ていることはできない。寝たきりだと床ずれするけれど、介護される年齢でもなんでもないからだ。
私が望んでいる人生は、この「起床」にすべてがかかっているのではないか?
そう考えると、生き方、「人生の目標」の輪郭がうっすらと、見え始めた気がした。
2021/03/20 13:20 | DIARY