「オオカミの家」と「コロニアの子供たち」

この写真は映画と無関係であり、霧島の観光写真です

名作と言われている「オオカミの家」をやっと見ることができた。なんと週末無料でYouTubeで公開されていたのである。

この作品の元ネタとなっている「コロニア・ディグニダ」についても知ることができた。Wikipediaの1ページだけでもうお腹いっぱいである。これ以上恐ろしい記述を見たくないというレベルの内容であった。

コロニア・ディグニダはドイツ系移民の一人パウル・シェーファーがチリに作った美しきドイツ仕様の村(コロニー)であり、その見た目の良さから地元チリ人からは良きものと捉えられていた。だが内情は悲惨で、7歳以上の子供を一日16時間働かせ、休日は与えられなかったという。また、従わないものは拷問、気に入った子供は性虐待のターゲットにされていた。

「オオカミの家」でマリアはこの「コロニア」から脱走し、見知らぬ空き家に転がり込むが、そこには豚が2匹いるだけ。コロニアからの追跡者は最後まで現れないが、マリアはずっと家の中で怯え続けた。外に出て食べ物を取ろうと決意した時もすでに頭が強迫観念でいっぱいになっており、豚たちに止められるのである。

そんな単純なストーリーではあるが、美術が独創的で素晴らしかった。

手法としてはストップモーションであるが、内容としては絵画のタイムラプスになっている時もあり、立体物の時もある。役者は出てこない。マリアは絵画か紙の人形として出演する。

紙の人形はピニャータとかなり似ており、アメリカ西海岸でメキシコの文化に触れていた私には見覚えのある造りであった。このピニャータは叩いて壊すというお祭りに使うもので、映像の中の紙の人形は、芯から作り上げられ、最後はデロデロと薄気味悪い壊れ方をして無くなっていく。

実に不気味な映像である。

この映像は、基本的にマリアの内面を表しており、マリアはコロニアからの追跡者に怯えているという心理状態を映像化したらこうなるということだろう。

個人的には、製作者側がなぜこんな映像を作ろうとしたのかが気になり調べた。彼らがチリ人であることからも、チリの歴史の汚点を忘れてはならない、そのような独裁コロニーが存在したことを世界に訴えようと、自国のテーマとして選んだと思われる。例えば、日本人が遠藤周作の「沈黙」を映画化したり、「MINAMATA」を創ったり(MINAMATAは結局海外の映画だが)、太平洋戦争での汚点を映画で描くような感じだろう。

これはジブリのプロデューサー鈴木敏夫氏のラジオの発言だが、基本的には自国をテーマに映画を作るのが一番だとおっしゃっている。

ちなみにコロニア・ディグニダ経験者からすると、この映像の心理描写はかなり本物に近いんだそうだ。

同じテーマの「コロニアの子供たち」

この映画の後すぐに「コロニアの子供たち」を見た。公開当時は少し気になっていた。チラシがとても美しいデザインだったからだ。この美しさというのが、コロニア・ディグニダの問題点である。コロニア・ディグニダは表向き、ドイツの良いところ、我々日本人も憧れるローテンブルクのような、ファンタジーで、清潔で、生真面目で整っている、そのようなコロニーに見えているということが、チラシのデザインに反映されていたのだ。

主人公のパブロはこの美しいコロニーの綺麗な学校に、「聖歌隊の一員として」入ることを母に勧められる。その聖歌隊は、ウィーン少年合唱団のような、声変わり前の少年たちで構成されていて、歌声は実に素晴らしかった。

だが少し引っかかる。なぜ男子だけなのだろうか?その理由は次第にわかってくる。リーダーのパウロおじさんは、常に少年だけを連れて運動などを自ら教えている。お気に入りの軍団が聖歌隊らしい。

ある日、パンツ一丁の少年ルドルフが虚な目でテレビを見ていて、パブロは不思議に思う。「スプリンター」に選ばれれば、テレビを観ることができると知る。だが、パブロが選ばれたとき、驚くべき展開が待ち受けていた。夜、同じベッドルームでテレビを見て、「脱げ」と言われるのである。実際の性虐待は描写されていないが、翌日、ルドルフから「大人になったんだね」と言われる。この「大人になる」はチラシにも書いてあったが、誰が性的虐待だと思うだろうか。

しかもこれは主人公に起きた重要なイベントの一部に過ぎない。

ウィキペディアでもわかる通り、パブロは母親と隔絶されるような描写がある。

また、数々の、なんとも言えない陰湿なお仕置きや虐待があり、逃亡しようとすると捕まり、拷問されるとか噂され、行方不明になる。マリアが嫌になった理由もよくわかる。しかもマリアは「チリ人」なのである。ドイツ人ではない。移民ではないのだから、被害者だ。

なぜ、自国の汚点を映画にするのか

これはとても重要な課題なので締めとして書いておきたい。我々日本人も、ドイツ人も、アメリカ人も、その他諸々の国の人も、自国の汚点を絶対に忘れてはいけない。なぜなら国民性から行われた悪事である可能性があり、繰り返される危険性があるからだ。

日本は武力を捨てた。日本が武力を持ったらまたアジアで無双しようとして、やり返されて次こそアメリカ合衆国の州にされてしまうかもしれない。グアム、サイパンのように。

歴史は教科書にしっかり刻まれているが、多くの人は歴史の授業が退屈に感じるのではないだろうか。私も歴史に興味があるのに、授業は恐ろしく退屈に感じたものだ。臨場感がないのである。

そこで映画やゲームである。私は第二次世界大戦はゲーム「コール・オブ・デューティーシリーズ」で学んだ。アメリカの視点からである。このシリーズで日本人と戦うバージョンは日本で発売されていない。

まだCoDシリーズはベトナム戦争や冷戦も扱っており、ベトナム戦争は特にゲームでその悲惨さを味わうことができた。

冷戦はスパイ映画のネタにうってつけで、多くの映画が作られている。エキサイティングといえば不謹慎だが、ベルリンの壁は映画の演出にはうってつけである。銃を持った兵士の検閲があり、違反すれば撃たれるのだから、わかりやすい。ドイツの夜は暗く、ドイツ語は硬く響き渡る。

日本の映画や漫画でも太平洋戦争は学べるのだが、多くは被害者の視点からであり、そこに政治的にどのような動きがあったかは、洋画「オッペンハイマー」などの方がわかりやすい。つまるところ、日本の視点から日本の政治が腐っていたという表現はやはりしにくいのである。その点においては、洋画はかなりチャレンジングだが、戦勝国だからかもしれない。

話が少し逸れたが、「オオカミの家」がなければ私がコロニア・ディグニダを知ることはなかっただろう。もちろん繰り返してはいけない悪事であるが、Wikipediaを読んでいても、映画を観ていても思うのだが、ブラック会社ではこれと似たようなことが行われていたし、かつてのジャニーズ事務所の代表の悪事も記憶に新しい。

つまり「コロニア・ディグニダ」は何も、古い話ではないのである。歴史は繰り返すと言われる。自分がリーダーになり権力を持ったときに、似たようなことをしていないか?自分の会社はコロニア・ディグニダのようになっていないか?と常に自問自答する必要がある。

そのために映画があると言っても過言ではない。